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第314号 須弥の頂と欲の山の頂


平安時代初期に書かれた日本最古の説話集『日本霊異記』に
こんな話が載っています。

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奈良の馬庭というところにある
山寺に住んでいた僧が亡くなった。
臨終に際して、その僧は
「死後三年は室の戸を開けるな」
と弟子たちに遺言した。

ところが四十九日を迎えた時、弟子が
室の戸に大蛇が伏せているのを見つけた。
その大蛇をどかしてみると
そこに銭三十貫文(注1)が隠されていた。

つまり、僧は銭に固執しすぎて
大蛇に変えられてしまっていたのだった。

(注1)一貫=銭(和同開珎)1000枚


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どんな高貴な僧の話かと思ったら
欲の皮の突っ張った僧の話でした。
この話の最後に、訓戒として

須弥の頂を見るといえども、
欲の山の頂を見ること得じ。


と記されています。

(注2)須弥山(しゅみせん)= 古代インドの世界観の中で中心にそびえる山。


神聖な霊山の山頂は見ることができるが、
欲望の山は限りがないのでその頂点を
見ることができない。

という意味です。

神聖な霊山より欲望の山のほうがはるかに高い。
これは現世の厳しい現実かもしれません。
ただし、欲にもいろいろあって、
老後のためにできるだけ貯金をしたいと思うのは
果たして「欲」でしょうか。

現実に貯蓄がなければ老後は自力で生きていけません。
貯蓄がいくらあっても不安要素を掻き立てれば
いくらあっても多すぎるということはないのです。
これを「欲」というには残酷でしょう。

人様に迷惑をかけずに生活したいというのは
むしろ、健全な「生活向上心」です。

でも1億円ためても2億円ためても、
10億、20億と、もっともっと貯めたいと
思うようなら、それはそこらにいる政治家と同様に
「欲」と言われても仕方ないかもしれません。


囲碁をやっている人が昇級したい、昇段したい
というのも欲と言えば欲ですが、
正しくは、向上心というべきもの。

どこまでが向上心なのか、
どこからが欲なのか、
その境がむずかしい。

話をもっと小さく、具体的にすると、
一局の碁において
いろいろな手がある中で
どこまで地を儲けるか
と悩んだことがだれでもあるでしょう。

完全にヨミ切れれば
迷うことはないわけですが、
読み切れないから迷うわけです。


Aに打てば確実に2目取れる
Bに打てば10目取れるかもしれないが
逆に取られるかもしれない。
というような局面に遭遇しことがないでしょうか。

その場合、どうするか。
堅実な人はAに打つ。
欲張りはBに打つ。
というのは単純すぎるかもしれません。

人生ただ一度のことなら
難しい選択になるかも知れません。
でも、何度も打てる囲碁の対局なら・・・
失敗してもいいから欲張りのほうが正しい。

ただ、ただ、欲張って結果オンリーなら
ただの欲張りですが
検討することを前提とすれば
欲張りのほうが学ぶことが可能だからです。

堅実な行動は
大きな失敗はないけれど
存在したかもしれないもっといい手を
学習する機会を失っているともいえるわけです。


堅実すぎて手が縮むのは一番いけませんが、
反対に、
20目勝っていても100目勝ちたいと
思う傾向のある人は

『須弥の頂を見るといえども、
欲の山の頂を見ること得じ。』

を思い出してみるのもいいかもしれません。



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